今日は、子どもの頃に飼っていた愛犬の花子の命日である。
女の子だった花子は、ひな祭りが終わった平成12年3月4日に亡くなった。
今まで内に秘めていた…というより、隠していた気持ちを初めて文字にしてみようと、なぜか思った。
その気持ちとは、「申し訳なさ」である。
花子は私が生まれる前からいた。
河原にいた所を両親に拾われた。
そして花子は目が見えなかった。
幼少期の頃の記憶なんてあまりない。
しかし痛みは覚えている。
サッカーをやっていた私は、初めて買ってもらったスパイクにテンションが上がっていた。
嬉しくて家の中でも履いていたら、誤って花子の足を踏んでしまい、思いっきり噛まれた。
痛くて泣いていた私を、母は「目が見えない花ちゃんも踏まれて痛くてビックリしたのよ」と諭した。
幼い自分は、花子のその恐怖を想像できなかった。
小学校高学年になって、なんとなく思春期の入り口が見え始めていた頃。
花子はだいぶ弱っていたのか、勝手に外に出て徘徊するようになった。
ウチの家庭は貧乏暇なしで、両親は共働き。
花子の面倒を見るのは私の役目だった。
その日も花子は勝手にいなくなった。
少しの怒りを覚えつつ、近所を探し回っていると、
自分より年上の中学生か高校生くらいのお姉さんが、花子を捕まえてくれていた。
自分にはそれが恥ずかしかった。
泣きながら花子のリードを引っ張って、家に帰った。
自分が成長するにつれて想像力もつくと、ようやく花子の置かれている環境が、いかに過酷だったか理解できるようになった。
なぜ自分はあの時、もっと優しく接してあげられなかったのか。
後悔しかない。
本当に申し訳ない。
自分のような弱い人間は、いくらでも言い訳が思いつく。
「自分が欲して飼っていたわけじゃない」
でも、花子がいてくれて良かったと思うことの方が多かった。
共働き家庭の鍵っ子だった私の、唯一の友達は花子だった。
幼少期の部屋での留守番が怖くなかったのは、花子がいてくれたらだ。
なのに、優しくできなくて本当にごめんね。
犬にまつわるイギリスの諺がある。
子どもが生まれたら犬を飼いなさい。
子どもが赤ん坊の時、子どもの良き守り手となるでしょう。
子どもが幼年期の時、子どもの良き遊び相手となるでしょう。
子どもが少年期の時、子どもの良き理解者となるでしょう。
そして子どもが青年になった時、 自らの死をもって子どもに命の尊さを教えるでしょう。
全く素晴らしい諺だと思う。
実際、花子の死をもってたくさんの感情を抱いた。
しかし、この諺には私のような人間の為の別バージョンも必要だと思う。
「子どもが生まれたら」ではなく、
子どもが望むのなら犬を飼いなさい。
私のような子どもには、命を預かるには責任感が必要だった。
花子本当にごめんね。
そして本当にありがとう。


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