今日、急遽会社の都合で午後が半休になった。
これが有給扱いなのは納得いかないが、
自分はこの半休が嬉しかった。
なんというか、ノスタルジックな気分になれるのだ。
そんな気分にさせてくれる要因が、雨と平日であるということ。

小学生の頃、自分は習い事をいくつかさせてもらっており、
1週間全てが習い事で埋まっていた。
スポーツ教室、塾、書道教習。
貧乏な家庭であったから、今思えば贅沢な事だと思える。
親には感謝しかない。
(全然活かせずこんな大人になってしまってごめんよ)
しかし、当時はそんな感情は全然なかった。
第一、習い事に行っている理由は、家の事情であったからだ。
うちには当時借金取りから、脅迫まがいの電話が来ていた。
両親共働きであったため、誰かに預かってもらう必要があった。
そこで習い事だったのだ。
当時は、月謝が500円という、おばあちゃん先生の娯楽でやっている書道教室があった。
そういった意味でも、我が家にとっては救世主とも言える預所だったのだ。
うちの両親は、強制的には行かせなかった。
うまいこと自分に興味を抱かせ、最終的に自分が「行きたい」といって、習い事が決まっていった。
そういった事もあって、子どもながらに「自分が言い出した事だから、辞めたいなんていえない」。
そんな気持ちがあった。
だから、遊びたくても習い事に行くしかなかった。
そんな少年時代の自分にも、合法的に休める時があった。
それが雨の日だった。
1週間のうち、4日間もしめるスポーツ教室は、雨の日は中止になる。
それが嬉しくてたまらなかった。
割と県内では強豪チームだったので、練習もすごく厳しかった。
それが無くなるのだ。
中止になると、外に出れないので、家の中で放課後の自由な時間を過ごすことになる。
貧乏だった我が家では、ゲームなどは買ってもらえなかった。
自分の当時の娯楽は、本やチラシの裏に描く絵ぐらいしかなかった。
でも、本来地獄のような練習を行なっている時間に、本を読んでいること自体が、
少年時代の自分には特別な時間だったのだ。

時が過ぎ、大人になった自分は、この記憶が雨の匂いと共に思い出される。
前職は、メンタルがやられるほど病んだ職場だった。
その職場では雨が降ると、車が運転できる自分がお遣いに行かされることが多かった。
その職場のオフィスは、窒息しそうなほど息苦しい雰囲気だったので、
このお遣いは自分にとっては、貴重な息継ぎタイムだった。
お遣いの車内では、決まってラジオを流していた。
無音だと、また戻った後のことを考えて、どんどん気分が沈んでしまう。
雨粒が柄のようになった窓ガラスから見る外の世界は、
自分だけの世界を作り出す特別な窓ガラスであり、境界線を作り出してくれた。
スーツが濡れるのを気にしながら歩くサラリーマン。
カッパで覆われ、背中の我が子を懸命に運ぶ、自転車に乗ったお母さん。
みんな苦労して生活してる。大変なのは自分だけじゃない。そう思わせてくれると同時に、
今この瞬間だけは、自分は雨にも濡れず、ラジオという娯楽に興じる特別な存在なのだと。
そう思わせてくれる。
それが雨だった。

ちなみに、雨の匂いには2種類あるらしい。
雨上がりと雨降りの匂い。
雨上がりの匂いは、「ゲオスミン」と呼ばれているらしい。
これは、土の中のバクテリアなどによって作られる有機化合物のカビのような匂い。
ゲオスミンとはギリシャ語で『大地の匂い』を意味するらしい。
そうやって聞くと、雨上がりの匂いはなぜか、
清々しさと力強さを感じる気がする。
ただ、自分にはその中に儚さを感じてしまう。
この匂いを嗅ぐと、夏休みの終わりの情景が目に浮かぶ。

雨が降っている時の匂いは、「ペトリコール」と呼ばれているらしい。
いわゆる、アスファルトから漂ってくる匂いだ。
ペトリコールとは、ギリシャ語で「石のエッセンス」という意味らしい。
ノスタルジックな気分には、雨の中に石のエッセンスが必要だ。
そんなノスタルジックな、雨降りの平日の午後には、
本とラジオとコーヒーと…。

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